れきしケンチクを探検しよう!
気になるれきしケンチクを訪(たず)ねてみよう!
お城か、武家屋敷(ぶけやしき)か、町家(まちや)か、お寺か、神社か、みんなのお気に入りは見つかるかな?
金沢のれきしケンチクを探検!
武家屋敷でくらす
武家屋敷の越村邸(こしむらてい)は、江戸時代に禄高(ろくだか)150石(こく)の山森という武士(ぶし)が住んでいた屋しきです。〔禄高とは江戸時代の給料を米の量・石で示したもの〕
しき地のまわりは長い土べいでかこまれており、門を入ると正面にげん関、左手に庭があります。庭にはりっぱな木が多く生えており、古くから屋しきであることを感じることができます。
建物の正面は、大きな屋根がハの字に広がっており、白色の漆喰(しっくい)のかべに木の格子がバランス良く配置されています。かつてはしき地のすみに馬小屋がありました。
部屋の間取りは大きく分けて、げん関とげん関に続く部屋、座敷(ざしき)の部屋、家族が生活する部屋、台所に分かれています。げん関は表げん関と内げん関の2ヶ所があり、お客さんは表げん関から、げん関に続く部屋を通って、座敷に案内されます。
座敷は8畳で、床(とこ)、縁(えん)があります。さらに、床の付いた8畳の座敷と納戸(なんど)〔しん室〕が連なっています。このほか、台所は、現代風に使用しやすい用に作り直されていますが、元々は、井戸や調理をするためのかまどがおかれ、すみには湯殿(ゆどの)とよばれるふろがありました。
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越村さんにお話を聞いてみました!
主人のおじいちゃんの代に富山からこの家に引っこしてきました。しき地が広く風通しが良いため、すずしく生活することができます。また、まちなかにはありますが、静かでいろいろな小鳥やこん虫が庭に入ってくるので、気持ちが安らぎます。
室内の朱色(しゅいろ)の土かべは、なかなか今は出せない色ということなので、大切に使っています。庭の草むしりや家の中のそうじが大変ではありますが、周りの人から、良いお屋しきに住んでいますねと言われるとほこらしい気持ちになります。昔から顔なじみだった大工さんたちも、今はみなさんお年寄りになってしまいました。修理(しゅうり)は大変ですが、今の建物やまちなみを残していきたいので、大切にしながらくらしていきたいと思います。
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□ 土べい
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□ 建物の正面〔大きな三角屋根〕
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□ 朱色の土かべ
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□ 苔(こけ)が整備された庭
町家でくらす
町家の北出邸(きたでてい)は、建てられてから80年ほどたった町家を、1階を飲食店、2階を事務所(じむしょ)と住まいとして修理したものです。建物内に茶室を作るなど、いろいろな工夫をしてあります。
1階のカフェには、畳(たたみ)の部屋があり、くつをぬいで入ります。おくには坪庭(つぼにわ)という小さな庭があり、明かり取りや空気の入れかえの役わりを持つと共に、季節のうつり変わりを感じることができます。
2階にはベンガラ色〔しゅ色〕や群青(ぐんじょう)色の土かべが残っていたことから、同じ色で作り直しています。また、地しんに対して強いつくりにする工事も行いました。
修理には、他の建物で使われていた古い材料を使うなど、金沢の職人技が多く用いられた町家となっています。
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北出さんご夫妻(ふさい)にお話を聞いてみました!
金沢の古いものを大切にするところや伝統文化(でんとうぶんか)が生活に密着(みっちゃく)しているところが気に入って、東京から移住してきました。海や山が近く、食べ物が美味しいのもみりょくです。
生活と建築設計(けんちくせっけい)事務所、飲食店をいっしょにできる町家をさがしていましたが、ここの場所がピッタリだったので、元の建物を修理して4年前からくらしています。わたし〔ご主人〕は、建築の設計士で、金沢に来てから古い建物に興味を持ったので、金沢職人大学校に通って学びました。学校では、古い建築を学ぶことができ、またいろいろな職人さんとも知りあうことができました。今住んでいるこの建物の修理にもその経験が生かされています。金沢の古い建物に使用されている建具(たてぐ)などは、とてもセンスが良く、すぐれた伝統工芸の技が金沢には受けつがれていると思います。
わたし〔ご夫人〕は、1階で飲食店「豆月(まめづき)」を開いています。この建物を修理する様子を食事をしながらモニターで見ることができます。最初はおとなりさんとかべ1まいで接しているのが気になるかもしれないと思っていましたが、特に音が聞こえるわけでもなく、マンションの部屋と同じ感覚で、気になりませんでした。お庭からの風通しも良く、自然の木でできた柱や土のかべ、中身がわらの畳にかこまれて、とても快適にくらしています。
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□ 正面
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□ 1階の様子〔おくが庭〕
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□ 小さな茶室前の庭
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□ 小さな茶室
お寺での生活
西養寺(さいようじ)は、江戸時代に加賀藩(かがはん)より天台宗(てんだいしゅう)という宗派(しゅうは)のお寺をとりまとめるように任命(にんめい)された格式の高いお寺です。ながめの良い高台に建っており、境内〔お寺が建っている場所〕の歴史的な景観が江戸時代のふんいきを今日に伝えています。
西養寺本堂(ほんどう)の屋根の中に残る棟札(むなふだ)という木の札に、1783〔天明(てんめい)3〕年に建てられたことが書かれていたことから、このころに建てられていたお寺の建物がどのようなものであったかを、この本堂から知ることができます。
屋根は、元は切妻造妻入(きりづまづくりつまいり)とすい測され、そこに前庇(まえびさし)をつけた形が、入毋屋造妻入(いりもやづくりつまいり)の形に発てんしたと考えられ、金沢の本堂建築における屋根の形の変化を知ることができる大切なものです。
西養寺鐘楼(しゅろう)は入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶ)きで、戸室石(とむろいし)〔金沢城の石がきに使用されている石〕の基壇(きだん)〔土台〕に建っています。棟札(むなふだ)から、建てられた年代は1851〔嘉永(かえい)4〕年で、龍(りゅう)や麒麟(きりん)のちょうこくなども見所です。高台に位置する境内からつかれた鐘(かね)の音は、卯辰(うたつ)山ろくの町場によくひびきわたったことが想像(そうぞう)されます。
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川崎さんにお話を聞いてみました!
私は石川県珠洲市(すずし)に生まれましたが、ご縁(えん)があって、西養寺の住職となりました。約40年前にこの寺で生活を始めたころは雨もりがひどかったのですが、かんたんな修理をしてすごしていました。
山出保(やまでたもつ)元金沢市長のころに、お寺などの古い建物や修理する職人を大切にしたいという思いから、元(もと)近畿大学(きんきだいがく)の櫻井俊雄(さくらいとしお)先生の研究室が調査に入ったことで、建築年代などが明らかとなり、貴重(きちょう)な建物であることがわかりました。
建物が市の指定する文化財となったことで、しっかりとした修理ができました。文化財の修理は、金沢の職人のうでの見せ所です。これから先も、境内の木々もふくめて、古い建物が残っていくよう大切に使っていきたいと思います。
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□ 本堂
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□ 鐘(かね)がつり下げられた鐘楼(しゅろう)
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□ 本堂の中の様子
内部を見学できたり、お店になっている"れきしケンチク"
れきしケンチクを探検する時は、開館・営業しているかなど、事前に調べていこう!
国指定…国指定重要文化財
県指定…県指定有形文化財
市指定…市指定有形文化財
国登録…国登録有形文化財
市保存…市指定保存建造物
市史跡…市指定史跡
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旧第四高等中学校本館
(きゅうだいしこうとうちゅうがっこうほんかん)
〔石川四高文化交流館〕 -
旧金澤陸軍兵器支廠
(きゅうかなざわりくぐんへいきししょう)
〔石川県立歴史博物館〕 -
旧石川県第二中学校本館
(きゅういしかわけんだいにちゅうがっこうほんかん)
〔金沢くらしの博物館〕 -
成巽閣
(せいそんかく)
〔展示施設〕 -
旧川縁米穀店
(きゅうかわべりべいこくてん)
〔金澤町家情報館〕 -
旧佐野家住宅
(きゅうさのけじゅうたく)
〔金沢学生のまち市民交流館〕 -
旧専売公社C-1号工場
(きゅうせんばいこうしゃC-1ごうこうじょう)
〔金沢市立玉川図書館近世史料館〕 -
旧陸軍第九師団司令部庁舎
(きゅうりくぐんだいきゅうしだんしれいぶちょうしゃ)
〔国立工芸館〕 -
旧陸軍金沢偕行社
(きゅうりくぐんかなざわかいこうしゃ)
〔国立工芸館〕 -
旧石川銀行橋場支店
(きゅういしかわぎんこうはしばしてん)
〔金沢文芸館〕 -
旧陸軍第九師団長官舎
(きゅうりくぐんだいきゅうしだんちょうかんしゃ)
〔石川県立美術館広坂別館〕 -
旧石川県庁舎本館
(きゅういしかわけんちょうほんかん)
〔石川県政記念しいのき迎賓館〕 -
寺島蔵人邸跡
(てらしまくらんどていあと)
〔展示施設〕 -
志摩
(しま)
〔展示施設〕 -
聖霊修道院聖堂
(せいれいしゅうどういんせいどう)
〔教会〕 -
旧中や
(きゅうなかや)
〔展示施設〕 -
旧ウィン館
(きゅううぃんかん)
〔北陸学院ウィン館〕 -
旧かみや
(きゅうかみや)
〔物販店舗〕 -
旧つちや
(きゅうつちや)
〔カフェ〕 -
旧諸江屋
(きゅうもろえや)
〔物販店舗〕 -
俵屋
(たわらや)
〔和菓子店〕 -
寿屋
(ことぶきや)
〔ケーキ屋〕 -
経田屋米穀店
(きょうでんやべいこくてん)
〔米穀店〕 -
旧越濱
(きゅうこしはま)
〔飲食店〕 -
旧三田商店
(きゅうみたしょうてん〕
〔古美術商〕 -
旧村松商店
(きゅうむらまつしょうてん)
〔1階雑貨店〕
未来に伝えたい金沢のまちなみ
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金沢のまちなみは江戸時代の城下町とそのまわりの農村部がルーツとなっています。
武士が集まって住んだ武家屋敷のまち、商人や職人などの住んだ町家が建ちならぶまち、茶屋がそろってならぶ茶屋街、お寺が集まった寺院群、たんぼや畑にかこまれた農家の村など、江戸時代から受けつがれた風景の中で、今もわたしたちは生活しています。いつもみなさんの身のまわりに広がっているふだんの風景の中に、実は金沢にしかないものがあるのです。
わたしたちは、江戸時代から受けつがれたこの城下町のまちなみや文化を大切にすることで、未来へと伝えていくことができます。
答えがわかったら、クリック!
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城下町の武家屋敷や町家は木でできているので、火事には大変気をつけていました。いったん火事になると、あっという間にとなりの家にもえうつり、広いはんいに広がることもありました。金沢ではれきしケンチクなどの古いものが残っていますが、伝統文化も数多く残っています。
次の中で江戸時代の火事の火消しを伝えるものはどれでしょうか?- ①加賀獅子(かがじし)
- ②加賀宝生(かがほうしょう)
- ③山王悪魔払(さんのうあくまばらい)
- ④加賀鳶(かがとび)梯子(はしご)登り
A: ④加賀鳶(かがとび)梯子(はしご)登り
加賀鳶は、江戸時代に前田家によって結成された火消し集だんで、火事場で行われていた梯子登りが、今は演技(えんぎ)としてその文化を伝えています。
加賀獅子は、お祭りで行われる金沢の獅子舞(ししまい)で、大きな獅子と棒(ぼう)ふりで演技されることが特ちょうです。
加賀宝生は、江戸時代から金沢に伝わる能楽(のうがく)の流派(りゅうは)です。
山王悪魔払いは、大野町日吉(おおのまちひよし)神社の夏祭りに行われている邪気(じゃき)〔悪い気〕ばらいです。