れきしケンチクが残るまちなみは
どこにある?
金沢には江戸時代(えどじだい)から続く、れきしケンチクのまちなみが残っているよ。
れきしケンチクが建ちならぶまちなみはどこにあるかな?
れきしケンチクのまちなみ
金沢の古いまちなみ
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今の金沢中心部のまちなみは、江戸時代につくられた城下町が元になっています。第2次世界大戦のひがいにあわなかったことから、れきしケンチクが多く残っており、また道路の位置や道はばなども変わっていない場所がたくさんあります。
城下町は金沢城を中心として、武士(ぶし)が住んでいる場所、町人が住んでいる場所が分かれていますが、明治時代になると武士は金沢をはなれることが多く、武士が住んでいた場所にも町人が住むようになりました。そのため武士の家よりも町人の家である町家(まちや)が多く残っています。
それでは、どのようなれきしケンチクのまちなみがあるのか見ていきましょう!
武士の住まい-武家屋敷(ぶけやしき)
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里見町 (さとみちょう)
江戸時代に武士の家〔武家屋敷〕が建ちならんでいた町です。土塀(どべい)というしき地をかこむ土のかべにつくられた門〔出入口〕から中に入ると、木々や植物、石などによる前庭があり、そのおくには建物の大屋根があるなど、かつて武士がくらしていた町の特ちょうが残っています。
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旧御歩町 (きゅうおかちまち)
江戸時代には歩士(かち)とよばれた武士たちが住んでいた場所とされています。現在も、武家屋敷の特ちょうを受けつぐ建物や、土塀、門など、ゆたかな前庭の緑などがあり、かつての面影(おもかげ)をよく残しています。
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水溜町 (みずためまち)
江戸時代に、金沢城を取りかこむように武家屋敷が建てられており、そのころの様子を伝える土塀がよく残っている町です。
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旧彦三一番丁・母衣町
(きゅうひこそいちばんちょう・ほろまち)浅野川(あさのがわ)にかかる中の橋(なかのはし)から小橋(こばし)あたりまでの川にそって広がる、かつて武士が暮らした静かな住たく地。「彦三(ひこそ)」は不破彦三(ふわひこぞう)という有力武士の名前に、「母衣(ほろ)」は母衣衆(ほろしゅう)という武士たちが住んでいたことに由来しています。
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長町 (ながまち)
連続する土塀というかべや長屋門(ながやもん)が通り全体に残っており、江戸時代の武家屋敷にタイムスリップしたような感覚になります。
そばを流れる大野庄(おおのしょう)用水から水をひいた庭園のある家もあります。
町人の住まい-町家
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旧新町 (きゅうしんちょう)
江戸時代の早い時期から町があった尾張町(おわりちょう)のまちなみが広がったために新町(しんちょう)と名付けられました。
赤や黒にぬられた外へきや格子戸(こうしど)から、昔のまちなみが感じられます。 -
旧天神町 (きゅうてんじんまち)
金沢城から越中砺波地方(えっちゅうとなみちほう)〔現在の富山県南砺市(とやまけんなんとし)〕を結ぶ旧二俣越(きゅうふたまたごえ)〔オコ谷往来(おこたにおうらい)〕という街道ぞいのまちなみで、町家が曲がりくねった道路に面して家々が建ちならぶ様子がよく残っています。
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旧蛤坂町 (きゅうはまぐりざかまち)
犀川(さいがわ)大橋で北国街道(ほっこくかいどう)から分かれて白山比咩(しらやまひめ)神社へ向かう旧鶴来道(きゅうつるぎみち)ぞいのまちなみです。寺町寺院群(てらまちじいんぐん)の門前町(もんぜんまち)として栄えました。
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観音町 (かんのんまち)
〔国重要伝統的建造物群保存地区(くにじゅうようでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)〕浅野川大橋(あさのがわおおはし)から卯辰(うたつ)山ろくの観音院(かんのんいん)までの通りで、町家が建ちならんでいます。米屋などの店も一部残り、古くからの商店街としてのふんいきが感じられます。
茶屋
主計町 (かずえまち)
〔国重要伝統的建造物群保存地区〕
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浅野川大橋のすぐそばにあって浅野川の水運や北国街道の人や物が行きかったにぎやかな場所で、茶屋とよばれる建物が建ちならんでいます。一階を出格子(でごうし)とし、正面全体を開放するせの高い二階を持つ茶屋建築(ちゃやけんちく)が建ちならんだ歴史的なまちなみが見られます。
東山(ひがしやま)ひがし
〔国重要伝統的建造物群保存地区〕
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江戸時代後期から明治時代初期にかけての茶屋建築が集まって残っています。道路に面して、一階を出格子とし、二階のせを高くして二階に座敷を置く茶屋が連なります。全国でも数少ない茶屋街の風景がよく残っています。
にし茶屋街 (ちゃやがい)
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北国街道を城下町から犀川をこえたあたりにある茶屋街で、出格子が美しい2階建ての茶屋建築が建ちならび、おもむきのある一角を作り上げています。
港町 (みなとまち)
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金石 (かないわ)
犀川河口(かこう)にあり、中世以来、交易の中心となった港町。江戸時代には北前船(きたまえぶね)の往来(おうらい)により港町として栄えました。特ちょうある町家のほかに、板塀(いたべい)や門をかまえた旧廻船問屋(きゅうかいせんどんや)の建物も見られ、港町の風景が良く残っています。
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大野町 (おおのまち)
日本海に面し、漁業、海運業、醤油醸造業(しょうゆじょうぞうぎょう)など古くからの仕事を伝える民家が数多く残っています。かつては、北前船の港町として栄え、現在でも「大野醤油(おおのしょうゆ)」の名で親しまれるように、醤油をつくっていた町として広く知られています。
寺院群
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卯辰山麓寺院群 (うたつさんろくじいんぐん)
〔国重要伝統的建造物群保存地区〕金沢城の北東、浅野川北側の卯辰山ろくのしゃ面地に広がっています。旧北国街道から卯辰山(うたつやま)の中ふくに向かってのびる江戸時代からの細い道路や町割(まちわり)〔当時からの町の形〕が今も残っています。道路のつき当たりや道路ぞいに寺や神社が配置され、伝統的な町家と一体となった景観を感じることができます。
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寺町寺院群 (てらまちじいんぐん)
〔国重要伝統的建造物群保存地区〕金沢城の南西、犀川南側の加賀藩主前田家墓所(かがはんしゅまえだけぼしょ)へと向かう旧野田道(きゅうのだみち)ぞいの野田寺町(のだてらまち)と、白山へ向かう旧鶴来道ぞいの泉寺町(いずみてらまち)からなります。野田寺町は、直線的な道路ぞいに寺や神社が整然と建ちならび、泉寺町は、寺の通りぞいに町家が建ちならぶ寺社門前地(じしゃもんぜんち)が見られます。
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小立野寺院群 (こだつのじいんぐん)
金沢城の東側丘陵(きゅうりょう)とその周辺にあります。寺院群内には金沢城の石に使う石を運んだ「いし曳(ひ)きの道」が通っており、道ぞいに加賀藩主前田家の菩提寺(ぼだいじ)である宝円寺(ほうえんじ)や前田家三代当主利常(としつね)の正室(せいしつ)・珠姫(たまひめ)の菩提寺である天徳院(てんとくいん)など前田家ゆかりの寺院が集められています。
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こまちなみのひとつである東山の「旧 御歩町(おかちまち)」。その町名の由来となった「かち」の意味するものはなに?
- ①勝ち
- ②山の近くで高地
- ③地面が固い「カチカチ」
- ④下級の武士
A: ④下級の武士
徒歩で行列についた武士。この辺りには武士の住んでいた武家屋敷が多く残っているよ。